自分の感情を援助理由にしてもいいのか?

可愛そう精神看護の実践

さてさて精神科、そうでない看護師さんも職場でこんなワード聞いたことないですか?

「患者さんがかわいそうだから、○○したい」


私の周りではこんなワードはしょっちゅう出てきます新人、中堅、ベテラン問わず出てきます

ということで今回はそんな「患者さんがかわいそうという思いを援助理由にしてもいいのか?」というテーマで記事を書いていきたいと思います

それではいってみましょー

目次

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【かわいそう】という感情とは

Goo辞書ではかわいそうという言葉の意味は

同情の気持ちが起こるさま。ふびんに思えるさま。

と書いてあります


哀れに思って同情している気持ちの事をかわいそうって言うんですよね


いざ意味を言われるとなんだかちょっぴり上から目線で他人事で傲慢な感情ですよね

かわいそうという感情を持つ事は良い

そんな上から目線で他人事な【かわいそう】って感情ですが,「患者さんにかわいそうなんか思っちゃいけないよ!」なんて言う看護師さんもたまに見かけます

おそらく、かわいそうという感情を看護に持ち込むことに対しての苦言を言っているわけですね


んですが「かわいそうと思う」事は私は思っていても良いだろうとは考えています

だって患者さんに起こってる事はどー考えても他人事ですもんね

「かわいそう」って感情が起こるのも無理は無いと思います

実際わたしも患者さんに対してそう思うことはあります


これって「かわいそう」って感情に限らずどんな陽性感情、陰性感情にも言えることだと思うんです

感情労働とも言われる看護師のお仕事ですがそんな自分の中に発生した「感情」というものに蓋をして患者さんのケアを行うのは時として治療の行い手、受け手双方に不利益をもたらすこともあります

感情って言うのは大きなエネルギーです

そんな大きなエネルギーに蓋をし、発散できずにいるとエネルギーを抑えるために多大な精神的な負担を抱えますしなんならそのうち暴発します

感情に蓋をした行い手側の精神的負担も大きくなり受けて側もその行い手の精神的負担に反応し陰性感情を覚え
負の連鎖が始まる

そんな経験ありません?新人看護師と気難しいお局看護師との関係にもちょっと似てますよな


だから【かわいそう】っていう感情は持っても良いとは思っていますし、蓋をする必要はないのかなと思っています


それに【かわいそうと思わんし、同情しようとも思わん、治療して退院してもらうだけ】という無味乾燥な看護師さんもたまにいますが、それはそれで人に寄り添うってなんだろうなとも思いますしね

【かわいそう】を援助の理由にしてはいけない


さて【かわいそう】と思うことは良い、【かわいそう】という感情に蓋をしてはいけないと述べましたが

かといって【かわいそう】という理由で患者さんに援助を行うのは如何なものかなとは思います


「ずっと入院していて何の楽しみもなくかわいそうだから、せめておやつを毎日食べさせてあげたい」
「自分で食事するのは大変そうでかわいそうだから、食事の介助をしてあげたい」
「ずっと家に帰れなくてかわいそうだから、外泊をさせてあげたい」



などなど、様々な【かわいそう】という理由で援助を行おうとする看護師さんは少なからずいるんじゃないでしょうか

まー身体科だと日々の業務の忙しさでそれどこじゃないような気もするんですが
精神科でもある程度余裕のある領域とかだったら、実際にそのかわいそうという感情を元に援助を行う看護師さんはたまに見かけるなーといった印象です

でも援助理由が「かわいそうだから」という理由であった場合、「かわいそう」以外のアセスメントを放棄する看護師さんが中にはいると思うんですよね

その人の今後の人生やらなんやらをぜーんぶ無視してただただ自分の独善的な援助を行い、患者さんを甘やかす

そんな光景はわりとみる印象です

酷い場合には「こんなに優しくしたのに、こんなことされた!もー知らん!優しくしてあげるの辞めた!」と甘やかすだけ甘やかしたあと、患者さんに不快な感情を抱いたイベントを経たのちに、いきなり放り投げて患者さんを不穏にさせたり、気分低下させたりする看護師さんもいます

あれですよね
看護師の姿勢としてちょっと私は微妙かなと思ってしまいます


エビデンス大好き看護師さんが、何にもエビデンスの無い【かわいそう】という気持ちだけで行動しているわけですしね
患者さんの【今】しか見ず、【未来】を考えない行為でもあるとも思ってしまいます

看護師としての視野は狭すぎですよね

そう思う真面目な看護師さんがそのような光景を見てきて「患者さんにかわいそうと思っちゃいけないよ!」と周りの看護師さんに言うようになるのかもしれませんね

もしかしたら患者さんから裏切られた経験でもあるんでしょうかね

uragiri
/https://notautinurce.com/2021/09/06/uragiri/

必要なのは【かわいそう】と思う自分を俯瞰して援助に臨むこと


じゃーどうすればいいんだよ!!というツッコミが来そうなもんですね

思うんですが【かわいそう】ってのは【看護師】としてというよりも【人】として出てくる感情ですよね

んじゃ一旦【看護師】として【かわいそうと思っている自分】を俯瞰してみてみる必要はありますよな


【かわいそうと思う自分】と【看護師としての自分】の考えを比較検討、時折葛藤させた時に、多分落としどころが見つかるんじゃないかなと思います

例えば

「家に帰れなくて、家族と過ごしたいと言っているのに帰れてなくてかわいそうだから、自宅外泊・せめて自宅外出できないだろうか」と思う人としての自分と

「精神状態的に短時間でも自宅で落ち着いて過ごすことが出来るのだろうか、家族は患者さんを見ていられるのか、ちゃんと自宅・病院まで送迎できるのだろうか」と思う看護師としての自分の考え同士を見つめた結果


「自宅で家族とちゃんと過ごすことが出来るか、送迎とか問題ないか、家族からの信頼を得ることも考えて、とりあえず退院前訪問看護を提案してみようか!」

となったら、多分人としての自分も看護師としての自分もうまい事納得させることが出来ますよね

今回は外出・外泊の例で挙げてきましたがそのほかでも【かわいそう】って思う場面はいっぱいありますよね

そんな時、自分を俯瞰してみてみることでもしかしたら広がる視野はあるんじゃないだろうかと思います



【人としての自分】と【看護師としての自分】を合わせた結果が【良い看護】につながるんじゃないかなときれいごとを述べておくことにしますね

https://notautinurce.com/2021/04/27/iikango/

まとめ


今回の記事どうでしたか?「そんくらいできてるわ!ばーか!馬鹿にすんな意識低い看護師めが!!!」とか思いました?

んでも、「人としての自分」として突っ走ったあげくに玉砕する看護師の姿なんて多分見たことある人多いんじゃないかなとは思います

だからといって「患者さんに対してかわいそうとか思わないで」なんて感情に蓋しちゃうのもなあ・・・とも思いまして今回はこんな記事を書いてみました

では!




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